仁多町研究
町村名標記について

HOME雲南研究室仁多町>米づくりの流れとその変貌

棚田の誕生について脱穀で使った昔の道具と手順米づくりの流れとその変貌米づくりに関するお祭りや行事について仁多町トップ

米づくりの流れとその変貌(今と昔の道具の移り変わり)

1、2/3、45、67、8

1.田ごしらえ

昔:四ツ手鍬(よつでくわ)・犂(すき)・おあし・馬鍬(まんが)

@人-シホンコ
人と牛がその主な労働力でした。人は4本爪のシホンコと呼ばれる鍬によって田を起こしていきます。鍬(くわ)も鉄がまだ貴重な明治中頃までは、先の部分だけが鉄製で、あとは木製の鍬を用いていました。また、深くはまらない田では牛に犂(すき)を付けて荒越こしをしました。(犂は明治40年頃に仁多犂が考案され、歯先などいろいろ改良を加え明治末期から大正時代にかけて、大いに普及しました。)
A牛-荒代かき(あらしろかき)
水がたまると、代かきであるが、まずそれを大まかにやります。このことを荒代といいます。牛を入れてマンガ(馬鍬:大きな土の塊を砕く)でかいていきます。マエゴシライがすむと、さらに牛にマンガを付けてすきました。これを植え代をかくといいます。

鍬 仁多犂

馬鍬

今:トラクター

耕耘機(こううんき)が昭和28年の後半より入ってきて、作業能率もよくなってきました。昭和33年にはエンジンも軽く改良されたテイラー(耕耘機)が発売されました。昭和36年の後半から、トラクターの小型が発売されました。続いて38年には中型、41年には大型のトラクターが発売になり、トラクターの普及により、また土地改良により田も大きくなり、農業経営も大きく変わっていきました。(昭和24年土地改良法が施行されました)

トラクターによる田ごしらえ

2.苗代

昔:水苗代(みずなわしろ)

明治から大正にかけて、苗床づくりということをするようになりました。苗床はだいたい高さ1尺(30cm)幅は3尺(90cm)ほどの畝(うね)を作る。苗床と苗床の間は約1尺(30cm)ぐらいあけて通路を作り、種はその苗床にだけ蒔きました。昭和20年頃から、苗床に油紙を覆うという折衷苗代(せっちゅういなわしろ)も普及してきました。油紙は後にビニールに変わりました。

今:育苗箱(いくびょうばこ)

昭和50年代に入ると育苗機にすっかり変って、2週間ほどすると、育苗機から育苗箱をとり出し、ビニールハウスで苗の管理をしながら田植えを待ちます。

育苗箱

次へ

棚田の誕生について脱穀で使った昔の道具と手順米づくりの流れとその変貌米づくりに関するお祭りや行事について仁多町トップ


雲南研究室