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よもやまばなし|ほたるかごをつくろう
<撮影データ>フィルム感度:ISO800/露光時間:180秒 <撮影日>2003年6月14日


【左から恩田さん、小山さん、森山さん】

「赤川の堤防を歩くと、飛んでいるほたるが体にぶつかるんです」今ではにわかに信じられないような話ですが、今回協力をしていただいた小山寿郎さん、森山博さん、恩田哲男さんの子供時代には本当にたくさんのほたるがいたといいます。大東町で生まれ育ち、少しずつ世代が違うお三方の思い出話や古くからの言い伝えをもとに、赤川ほたるにまつわる話をまとめました。

 

■赤川ほたるの起源
赤川ほたるの歴史は江戸時代中期までさかのぼります。当時の松江藩主・松平不昧公(1751〜1818)が、京都の宇治から大東へ製茶法を伝えた際に、近江の守山村(現在の滋賀県守山市)から持ち帰ったゲンジボタルを赤川に放したのがはじまりだといわれています

<赤川ほたる>
■ほたる合戦
かつて、赤川の堤防を歩くと、飛び交うほたるが体にぶつかるほどだったといいます。そして、特に多くのほたるが群生する場所では「ほたる合戦」と呼ばれる現象が見られることがありました。これは、球状に密集したほたるの大群が空中を浮遊し、他の大群とぶつかり合うというもので、数分から十分程度の間繰り返されたそうです。群れの直径は2mから大きいものでは6mにもなり、まるで巨大な火の玉のようであったといわれています。
■蛍蚊帳
昭和10年頃、太田紋三氏の発案で阿用川橋付近に屋形船や城の形をした大きな蚊帳を吊り、その中にたくさんのほたるを放した「蛍蚊帳」が設けられました。蚊帳の中に入れるほたるは周辺の子供達によって集められ、幻想的な光景で見物客を喜ばせたのち、すべて逃がされたということです。
■お留ぼたる
赤川に放されたほたるは急激に繁殖し、やがて「赤川ほたる」として近隣にも知られるようになりました。そうすると、それまで「ほたる観」をするだけだった人々が「ほたる狩り」を楽しむようになり、ほたるの生息数に減少の兆候が見られるようになりました。そのため、明治3年5月に松江藩からほたる捕獲禁止のお布令が出されました。人々はこれを「お留ぼたる」と呼んだということです。
■初代「赤川蛍保存会」
昭和に入ると以前に比べほたるの数が減少の一途をたどるようになりました。そこで、昭和3年5月、太田紋三氏をはじめとする有志により「赤川蛍保存会」が設立されました。保存会では捕獲防止を呼びかける標柱を立てたり、小学校の協力のもと、児童による夜回りなどの活動をしました。
■ほたるかご
「ほたるかご」は麦わらを編んで作ったかごのことで、昔の子供たちはみんな作っていたといいます。同様のものは全国にあり、ほたるに限らず虫カゴとして使われていたようですが、大東ではキリギリスを入れるのに使うことが多かったので「ぎーすかご」と呼ばれていたそうです。 
ほたるかごをつくろう

<ほたるかご>

 

■赤川ほたるの思ひ出  文:森山比呂志

 昭和十年ごろの赤川ほたるの思ひ出ばなしですが、私は他の子供たちと一緒に蛍保存会の提灯をさげ、足半(注1)を履き、暗闇の赤川沿いの道を歩きながら「蛍を捕るな」と拍子木を打ちながら捕獲防止に努めた覚えがあります。
 また蛍保存会の故・太田紋三さんの発案により、赤川と阿用川の交流地点の河原に、稲架木(注2)を組立て、城または船の形をした蚊帳を吊り、その中に蛍数千匹を放ち観客を楽しませたり、他にも狩野翁碑付近に仮設舞台を作り、安来節や浪曲などの演芸を行い、露天などとあわせて蛍見物のお客を楽しませました。
 蛍観の期間中には臨時列車が運行され、鉄橋の中央で停車して、蛍が群れをなし火の玉となってぶつかり合う蛍合戦の光景を、乗客に見物させ楽しませるなど(注3)、ほたるの季節には大東町の赤川ほたるを宣伝し観光にも貢献しました。

 放ちやる蛍の匂ひ掌(て)に残る  比呂志

 (注1)足半(あしなか)はわらじの一種で、足の真ん中ぐらいまでの大きさのものをいいます。
 (注2)稲架木(はでぎ)は刈り取った稲を架けて乾かす際に使用する道具です。
 (注3)大東に鉄道が開通した大正5年頃、このような列車が運行されていました。

 


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